今週金曜の夜、次のネクストライヴオンステージです!


いつもの場所でいつものメンツ。
いつもと違う日になるはずです。

出番はトップの19:30~
よろしくさん!







古井由吉

日本小説家ドイツ文学者。いわゆる「内向の世代」の代表的作家と言われている
とウィキペディア。
内向の世代って言葉、僕も今初めて聞いたので詳しいことは何も知らないけれど、
古井由吉の名は、ここでも何度か出したことがあるかも知れない。
結構前から僕の研究(ってそんな大袈裟なものでもないが…)に頻繁に名前が出てくる作家。
避けては通れずずっと気になって、ふと立ち寄った古本屋でその名を見つけたりしたら、何も考えずにとりあえず未来の自分のために購入しておいた。
その未来は何度か訪れ、何度か古井由吉の世界に潜入したけれど、その度に門前払いとなった。
僕の考え方ですが、本や映画、音楽もスッと入ってこないモノは別に無理して扉をノックし続ける必要はない。
受け取り手にまるで歩み寄って来ようとしない作品というのは、作品が愚かであるか、自分とは違う血が流れているのだと考えてしまって構わないと思っている。
とはいえ、あまりにもスッと入って来すぎてしまうと『娯楽』というカテゴリーに属してしまうので、なんだか軽いもののようにも思えてしまう。
最近は年も重ねたせいか、もう研究の念は捨てて娯楽から蜜を吸うだけでも構わないようにも思えていた。
元より研究というものは、娯楽こそがスタート地点なのではないかとも考えられるようになっていた。

そんな中でなんとなく置いて行けなかったのが古井由吉。
こじ開けた世界の向こう側に、パッと広がった風景はきっと僕の探している空気感と一致するはず。
数多、未来に託し、果たしてその時は来た。

思っていた通りの世界観が広がった。
思っていた通りの世界観を初めての趣向で表現する人だった。
まだ語れるほど読んだわけではないので、甚だ初心者の戯言ではあるが、一人称が突然三人称に変わったりする。
夢の話と現実とが交差したりする。
スッと入って来なかったのはこの表現のせいだと分かった。
呼吸を整え、腰を落としてぶつかってみると、その表現がめちゃくちゃ美しかった。
一人称が三人称へ…
例えば、自分の少年時代を回想しているシーンで、『私』から『子供』に変わったりする。
敗戦直後の電車の中で眠っていた古井由吉少年は、疲れ果てた復員軍人たちが口々に歌うノーエ節を聞いて「どこで音頭を取っているのだろう、と子供は思ってまた眠り込んだ」とある。
敗戦で無口になって俯く復員と大人たち。その真ん中で何事とも知れず所在なく眠る子供を第三者として眺めたのか、回想旅行の作家、古井由吉が自分の少年を垣間見たのか、これはきれいな技だと思った。

僕はどちらかというとコレクションを大事に保管する方で、CDも本もわりと買ったままの状態で所有してある。
本に書き込みをする人があるというが、それは素晴らしい行為だと思いながらも実行したことは一度とない。
今回初めて線を引いて付箋をつけようかと思った。
やっと捉まえた古井由吉の世界を、逃したくないと思った。
ここまでできれば、これを『研究』と呼んで恥ずかしくないのではないかと思えてきた。
『研究』も実は『娯楽』なのだ。
そして、『研究』の蜜の味を知る者は、その要素を含まない『娯楽』では満足できなくなるのである。
久し振りに研究材料を見つけた僕は、自分の内部に血が通い出したのを実感している。