たぎり屋会報

たぎり屋ナヤのお送りする日々の回想、雑文。

2014年08月

 ありがたい。
 涼しくなってきたことに私は何度、感謝の意を表したことだろうか。
 ありがたい。夏が嫌いだ。暑いのが苦手だ。暑いくらいならキーンと冷たい方が良い。
 その暑さに喰いつかれるかのように8月、私は体調を崩した。風邪をひいたわけではない。しっかり寝ても、疲れが抜けない朝を繰り返していた。目が霞む。頭がぼやける。ビデオ・オンデマンドで大河ドラマ『龍馬伝』をたった2週間弱で見切ったせいかも知れない。目薬により、視力が回復する感じを初めて体験した。しかしそれも、まさに言葉通り“一瞬”であった。更には愚図愚図とした天候。湿気は、ありもせぬ乙女心を圧し付けてくる女人の言動に似ている。現在、後者の方は落ち着いているが、湿気は私の体力を存分に奪った。
 ある日が来れば、それらは解決すると私は高を括っていた。
 “ある日”とは?祖母の住む山口県に足を向ける日を家族で決めていた、その日である。私は愛知県に住む兄に合わせて会社に一日だけ有給願いを出し、土日を利用して2泊3日の帰省をした。

 必要最小限の荷を1800円で買ったばかりのバックに詰め、その一番底には忘るることなく祖母に貰った浴衣を入れた。同じ日、ほぼ同じ時間に新幹線に乗り込んだ愛知の兄は、一旦ヒロシマに寄って観光して来るという。その間、徳山駅で落ち合った母に浴衣の帯を買ってもらう約束をしていた。
 ずっと愚図愚図だった空はその日だけほぼ快晴で、相変わらずの晴男、女家系を実感させられる。料金の高さを別とすれば、新幹線でたった2時間で着く徳山(現在は周南市。この記事では私にとって馴染みのある“徳山”という言葉を用いる)は近いと言える。江戸時代、土佐から江戸まで男の足で30日だったというから、大坂から長州は20日くらいだろうか?もっと易いか?瀬戸内を船で行ったのだろうか?昨晩から読み始めた司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読みながら私はそんなことを考えていた。ちょうど龍馬が剣術修行で江戸に渡る途中、初めて富士を眺望する、かの有名な場面を、私は喫煙ルームで再読した。
 徳山駅に到着し、車で迎えに来てくれた母に会う。6月に来たばかりだったので、それほど感慨深いものがあるわけではない。お互い微妙な表情を浮かべざるを得なかった。
 車に乗り込むか乗り込まぬかのうちに、私はすぐ話を幕末に振る。母は司馬遼太郎はほぼ読破し、他の時代小説にも相当明るい、私の知る人の中では随一の日本史マニアである。中でも幕末に明るい。
「やっぱり子は親の道を追うものだな」
助手席で私は言った。
「本来であれば親父の道を追うんやろうけど…」
親父の道は途切れた。私たち子には追うべき道がない。負うべき荷ばかりが増えている。
 大河『龍馬伝』では高杉晋作役の男性が当たり役だと思っていて、私はスマートホンで画像を検索し、母に見せる。母もそのハマり役に大喜びだった。当然、私も母も芸名は知らない。
 デパート(ショッピングモールと言うほど大型のものではない)に行き、約束通り帯を買ってもらう。気に入ったものがあれば、仕立て済の浴衣も新調する心積もりであったが、8月の終盤、浴衣は殆ど片付けられていた。帯も2本しかなく、そのうちの一本を購入。相当に気に入っている。
 私は10時に徳山に着いたので、15時半にヒロシマから徳山に来るという兄を待つには、少し時間があり過ぎた。行く宛を失い、ビルの二階にある経営が成り立つのか心配になる喫茶店に入り、珈琲を飲みながら母に買っていった相撲マガジンを捲った。今回の力士紹介写真は“そめぬき”姿。相撲話を講じれば、時間はあっという間に経つ。
 徳山は廃れている。週末にも関わらず、出歩く人も少ない。隣町の下松に都会は移って行っている。私はまだ幼少だった為、薄い記憶しかないが、昔の徳山はもっと賑わっていた。今や、人の数より閉ざされたガレージの数の方が多そうだ。その徳山に、兄が来た。

 服装から色彩を失いつつある私と相反して、38になる2児のテテ親は彩りを増しつつある。会うのはちょうど一年前の京都以来か。FBで繋がってる今や、それほど懐かしさを覚えない。それは良いことなのか否か。両方と言える気がする。
 元々性格は異なる兄弟である。離れて暮らす時間の方が圧倒的に長くもなり、価値観の違いもあからさまになって来ている。しかし不思議なもので、芯の部分の考え方や、趣味趣向、或いは酒、女の好みまで似ている。これが遺伝子というものなのだろうか。再会して第一声、私は兄に「(親父に)似て来てしまったな」と言った。
 今回は子供達を連れて来ず、単身での帰省であったので、思う存分男同士の会話に勤しんだ。兄が話し出すと私は一歩退き、その道筋を譲る。いくつになっても弟とはそういうものである。いや、世間的には逆であろうか?しかし私達兄弟は5つ離れている。或いは私の性格であろうか?

 一旦家に戻り、いつものように玄関先まで出迎えてくれた祖母と抱擁する。「よく来たね」と皺と共に刻む笑顔は、濁りを知らず。自然私達は「ただいま」と口にする。同じように母が「ただいま」と口にすると、「おかえり。お疲れさん」と少し冷めたような表情で祖母は言葉を向けた。母がすっかりそこの家人となったことが証明されたような気がした。

 夜は海鮮居酒屋での会食となった。下松から1児のテテ親となった私よりひとつ下の従兄弟も駆けつけてくれた。二階靴脱ぎ場に置いてあった連獅子の日本人形は大層私を喜ばせた。
 山口県にはいくつか有名な酒がある。その代表が獺祭(だっさい)であろうか?少しフルーティーな飲み口のその酒は、正直、酒飲みの私達兄弟には物足りない。メニューの中から私は“久保田”を選んだ。最近ずっと気になっていた新潟の酒である。値段が手頃なのと“辛口”とあったことからそれを注文した。
 普段飲んでいる剣菱は辛口であるが、その辛味は旨みとコクの後、追うようにしてやってくる。私はそれに感激し、毎度の晩酌に用いるようになった。安い金額で満足のいく酒を見つけることが私の美学とも言える。
 久保田は何段階にも分けて自己表現してきた。一口喉を通し、私は「ああ、おもしろい!」と口にした。剣菱が二段階だとすると、久保田(おそらく一番安い“百寿”だったと思う)は三段階と言ったところか。兄もそれに興味を引かれたようで一口やる。「ああ、わかる!」と言った。
 それでは違うものを、ということで先刻より叔父が勧めてくれていた“原田”を兄は注文した。こちらは正真正銘、山口の酒である。不慣れであろう、大阪のノリに先刻より閉口していた女店員が持ってきた原田を、兄は「先に試せ」と言わんばかりに私に向けてきた。私はそれを大切に一口舐めた。
「…。」
言葉を失った私に兄は「あかんかった?」と自身の喉に通した。
「…。」
兄も言葉を失った。
 結論から言おう。山口県はつもみぢの純米酒、原田は、私が33年間生きてきた中で、現在ダントツ一位の酒である。
 先程の言い方を続けるならば、原田は七段階である。幾度も幾度も語りかけてくる。それも大声で怒鳴りつけてくるのではなく、耳元でそっと囁いてくる。艶のある吉原の女の声にあらず。よく出来た妻のしなやかな声である。
 料理を含み、それを原田で追わすと、さらに深みを増す。年増である。それをいう今、私は完全に阿呆である。
自然、男はつらいよ第42作『ぼくの伯父さん』の寅さんの台詞を思い出した。奇跡的にYou Tubeでその場面が上がっていたのでこれに添付しておく。



 兄を追い、私も原田を注文した。原田の語り掛けに耳を澄ますことに忙しく、私達兄弟は無口になった。いかんせん、兄の盃は、なかなか減らない。「はて?酔ったか?」と自分の杯に目を繰れば、やはり減っていない。コップ一杯の原田は、銚子2本分くらいの存在感を放っていたのだ。

 帰宅後、祖母の誕生日を祝った。少女の心を持った88歳は綺麗に写らないから、と言う理由で、ひどく写真を嫌がるのだが、みなの祝杯を喜び、顔を紅く染めた。
 みなが寝静まり、私は母と洋間で続きの酒を飲んだ。今後について深く話し合った。

 私の朝も早いが、家族の中では一番遅い。私が床を出た朝6時前、もう、皆が起きて行動していた。
 天気は予報通り、崩れそうな空模様だった。しかし、田舎に煙る空は妙に映えて見えた。兄とふたりで朝食前の散歩に出掛けた。まだ、今のように涼しくなる前だったが、その土地はきっと、真夏でも過ごしやすいのだ。冬は雪が積もる厳しい季節となるが。空が広く、静かである。河内長野に住んでいた頃は当然のように聴いていた虫の鳴き声も、随分久し振りに耳にした。イモリ一匹に興奮し、兄弟で写真を撮りまくった。大阪の部屋に出たら、逃げ惑うかも知れないが、田舎で出会うその存在は非常に貴重なもののような気がした。イモリの側も人間を完全に信用しているのか、近づいてシャッターを切ろうが、指先で突こうが、全く微動だにしない。ケツを振って這う様が滑稽で愉快だった。
 朝食の後、叔母が温泉宿に連れて行ってくれた。車で40分ほどであっただろうか。今は宿としての経営はしていないようで、入浴客だけが来るようであった。元来、風呂好きではない私であるが、これは私の要望であった。普段、ユニットバスの狭い湯船で肘を打ち打ち身体を洗う毎日なので、大きな湯船に久し振りに浸かりたかったのだ。
 私は浴衣に雪駄姿だった。風呂に行くのにこれ以上ないというほどの装束であった。まさか、帰りに道の駅に立ち寄ることになるとは思ってもいなかったのだ。
 道の駅ではちょうど有志による一般人のコンサートが催されていたが、行き交う人々の視線から察するに、どうやら和装の私が一番目立っていたようだった。
 道の駅には原田があったが、叔父がまた昨日酒蔵まで足を運び、兄弟ふたり分の獺祭を買ってきてくれているらしく、今回は買わずに帰った。
 帰宅後、神棚の前で昼食をとった。昼間から飲んだ。いや、本当は朝から飲んでいた。交わす会話は相撲、音楽、思い出、さらには昨晩の原田。一夜明けて尚、原田は肴となり得た。
 2時間ほどその席で眠り、夕刻そのまま夕飯となった。まさに食って眠り、たまに歌いの一日。家族の要望に応え、兄は様々のレパートリーを披露する。時々コードは出鱈目であった。その兄はこの日、歳をひとつ重ねた。

 次の日も朝から散歩に出掛けた。昨日とは反対方向に足を向けた。最近では珍しくなった電話ボックスがあり、イモリよろしくふたりで写真を撮りまくった。
 また朝から飲み、13時半の新幹線で兄弟それぞれ大阪と名古屋に向けて帰った。指定席を取ったが、自由席に座り、この旅で一番深く話し込んだ。それぞれ都会に住んでいるが、帰る田舎があることをこの上なく感謝している。そして家族みなが健康でいてくれること。これは一番の贅沢なのだと思う。
「檀れいのような女はもう売れとるぞ」
と、兄に諭された。うぬ…
「ひょっとしたらこれからちょくちょく行けるかも知れん」
何度か兄はそう呟いた。子供がふたりとも成長し、手が掛からぬようになってきたからだという。
 考えれば、2年3年会えないのは普通だった。その頃の忙しさは今、ない。懐に余裕があれば、ふっと週末足を向けることも難しくはない。散り散りになった家族だが、心はみなひとつに固まっている。この歳になって初めて、その豊かさを実感しているのかも知れない。

 新大阪で兄と別れた。
 心に壮大な風景を抱き、行く前とは全く違う余裕の精神を取り戻した。あと何年夢を追うだろう?それは果たしてこの大阪にあるのだろうか?こういうことを言うと、まるで己を特別視しているようで今まで控えてきたが、一年大阪の市内に住み、私ははっきりと確信した。『大阪は私の肌に合わない』。将来は田舎に住みたい。奈良も善し。長野も善し。しかし一番はやはり山口か。私を私として迎えてくれる土地はいずこや。
 まずは将来の手前を組み立てなければならない。逃げるように田舎に引っ込みたくない。

“志を果たして いつの日にか帰らん”(童謡『ふるさと』)

そうありたいのだ。

すすま場所
※兄のブログshigeのペンケースより抜粋
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 午前中、用事で久方振りに地元に戻っていた。
 雨にはうんざりするが、それ以上に酷暑の方が私には辛い。雨の降る方が多少は涼しいのではないかと決め打ち、迷うことなく傘を持って家を飛び出した。しかし、元来の晴男っぷりはこの日も見事に私の背中に降り注ぎ、傘はただの荷物と化す。ステッキを持つほどの歳でもない。 
 実家に着き、窓を開け放つと爽やかな風が無人の家の中をさらって行った。河内長野は大阪市内よりやはり気温が低いようだ。午前中にエアコンは要らない。人が生きるのに適した地域と言える。なのに人というイキモノは、生きて行くのに適さない地域に集まる不思議な習性を持っている。私も含めてであるが。
 早々に実家を出た私は、20分近い道程を歩いて最寄の駅に立つ。持っていたハンカチがぐしょぐしょになるまで汗をかいた。同じホームに立っていた派手なスニーカーを履いた小父さんは「なんでこんなに暑いねん」とはっきりひとりごちた。私はベンチに腰掛け、汗を拭いながら電車を待つ。二~三人しかいなかったホームには、老若男女の人々が集まってきた。休日、私は電車の時間を確かめることをしない。いつも人の集まり具合を見て電車の時刻を推し量る。
 隣に座っていた中学生くらいの女子二人組みの話し声が、聞きたくなくとも耳に入ってくる。どうやらふたりで難波まで活動写真を観に行くようだ。片方の子が「乗り換えはあるのか?」「何分に来るのか?」と盛んに聞いていた。もう一方の子は普段、リーダーシップを執る子なのだろう。逡巡することなくその子を諭していた。
「あ~早く観たい」
リーダーシップの子が椅子から立ち上がりそう言った。
「…さんに早く会いたい」
映画に出演する役者をあだ名で呼んだようだ。もう一方の子は
「…さんって言うんや?」
と返す。
「そう、○○××さんやから…さん」
どうやら勝手につけた呼び名であるらしかった。正式な芸名を聞いたところで私の知らぬ名であった。
 リーダーシップを執る子というものは、決まって相手を退屈させぬように行動すると相場は決まっている。持ち得る知識をひけらかし、慕う人を笑わせようと努めるものである。彼女は場を持たせるかのように歌い出した。幸運にもその子を慕うもう一方の子は素直な子なのだろう。同調してその子も歌い出した。テレビも殆ど観ず、子も持たぬ私にとって彼女らの純朴な会話は別世界の出来事のようであったが、その歌が私と彼女らを結ぶ橋のような役目を担った。
 尾崎豊の『OH MY LITTLE GIRL』であった。私も彼女らくらいの年齢の頃、よく聴き歌ったものだ。「ほぉ」と心の中で呟いた私は汗を拭いながら、彼女らのメロディーと記憶の中のメロディーを重ねて行った。
 電車は、リーダーシップの子が告げた時刻より七分遅れて入って来た。



さて。
夏が嫌いで汗をかくのが大嫌いな私ですが。
本日の上記は実話です。ほんの一年ちょっと前は毎朝その駅に立ち、
汗を拭いながら電車を待ったのですが、今はそれもなくなりました。
汗をかかんというのは身体に悪いことやろな、と最近つくづく思うであります。 
そして電車に乗ると本が読める。これは大きな拾い物ですな。
電車に乗らなくなって、随分と本を読まなくなりました。
ここ2~3年、身体の衰えと伴って、脳の方の変化は著しゅうございます。
『活性化』と書こうとして『変化』と変えたのですが、
活性化かどうかはそれぞれの判断でございますからな、
当然私は活性化だと思っておりますが。 

流行物に興味が沸かない。娯楽の話ですが。
映画、音楽、書物…
私も物づくりする者の端くれ、どうしてもそういった類のものを
作り手からの視線もプラスし、見てしまうのですが。
それに加え、(作り手でもある)私にとって今、それは必要なものか?
そんなことを考えてしまうところがあります。
自分で音楽を創ろうと決めた中学生くらいの頃からそんな思いはあったのですが、
その判断が素早くなってきた気はします。
自分の中で育つもの、育たぬもの、
その見極めが出来るようになってきた気がします。
映画で言うと、ハリウッドものは今や、ほぼ皆無です。
どんちゃん騒ぎで「何億円かけて製作!」なんて謳って いても、
後に何も残らん。
そういうものはもう、バッサバッサ切り捨てて行ってます。
ここにも書いたことがありますが、私が二十歳そこそこだった頃、
6つ上の友達がありまして。
危険極まりない静かなる男、名をKと言い。
教育上、精神上、健康上、宜しくない映画、音楽、書物を、
まるで相撲の取組表よろしく私の前に並べ立て仕り候。(←ならべたてつかまつりそうろう。これは私のただの趣味。本日の内容とはあまり関係ございません)
その頃はけっこう背伸びして取り込んでいたと思うのですが、
次第にK氏の勧める、うーん…、見据えている世界が判り出し、
流行物がどれほどくだらないかを自分の中でも判断できるに及んだわけですが。
その後、それはちょっと流行り出した。
映画では岩井俊二監督あたりがそれに当たるだろうか?
岩井監督は僕も好きですが、やっぱりなんというか、軽い。
僕にとってはエンターテイメントの域を脱さないものであります。
今、読書も休憩用にと東野圭吾や伊坂幸太郎を読んだりしますがその具合。
いや、たぶん東野圭吾、伊坂幸太郎ももう読まないのではないか?と
僕は思っておりますが。
と、これが今日話したいことのメイン。
例えで引っ張り出してきたものに話が雪崩れ込んでいくという
真新しいパターン。

だって苦学生って本の感想、お勧めをするコーナーなんですもの。
まくらが長すぎたのでごじゃる。

好きな作家は?
そう聞かれたら僕は「坂口安吾です」と答えるようにしている。
それは嘘じゃないし、角川文庫が出している『堕落論』は僕の指南書です。
いつも寝床から手の届く場所に置いてある。
坂口安吾は太宰治ほど(ふたりは仲良しです)有名じゃないから
なかなか見つけられなくて、細々と買い足して行ってるのですが、
まだそんなに読めてない。
ただ、この人の文章運びが僕はツボなんですな。
たぶん、価値観も似ているよう。
なんというか、思いつくままに書きますけど、
小説ってちょっと、娯楽のように思われるじゃないですか。
もちろん娯楽ですけど、例えば現代で流行してる新書、ビジネス書、
論文なんかに比べて。
そういうものは為になるけど、
小説なんてなんちゃー役に立たんぜよ、と。
大きな勘違い!
大きな大きな勘違い!
大きな勘違いであると言うことを大きな声で叫びたい!
我々の日々の鬱屈を淘汰してくれるがはビジネス書にはないがじゃ!
(ときどき土佐弁が混じる純粋で可愛いボク)

たぶんねビジネス書を開く多くの人々が指す小説と言うのは
前述の東野圭吾や伊坂幸太郎なんじゃないのですかな?
いやいや、おふたりの作品は面白いですよ。
読者を惹きつける魔法のようなテクニックをお持ちです。
いかんせんストーリー先行。 
僕が言う小説とはやっぱりそれではないのです。
ここにはよく紹介する作家さんがこの後、名を連ねるので
悩説愛読者におかれましては「またかよ」と退屈されるかも知れませんけど。
僕の周りでその辺りの小説読んでいると聞く友達がないものでね。
安吾ももちろんそうなんですけど、
志賀直哉、井伏鱒二、檸檬の梶井基次郎。
その辺りに比べたら、太宰がいかに現代っぽいかお判り頂けるかと存じます。
やっぱり詩に近いのかな?
志賀も井伏も所謂、“何も起きない”という作風が多いように思います。
ストーリーではないところで勝負してる感。
そして僕が何より好きな作家が木山捷平。
ゆらゆらふらふらして、登場人物はブラブラしてて、
敗戦後の満州でソ連兵に
「おー、ソバーカス」
と声をかけ、勝手にソバーカス二等兵と呼んでみたり(笑)
(『耳学問』参照)
なんかこれが人間の本来の姿だよなーと僕は思うがです。
結末に大どんでん返しがあるかって言うと、ない。
だって君の人生、そんなにどんでん返しがしょっちゅうあるかえ?
やっぱりおんなじことの繰り返しで、
その中で楽しみやら悲しみやらを経験するでしょ?
それとも自分が繰り返しの連続であるから、
小説の登場人物にはどんでん返し、でんぐり返しを望むってか?
時には死んでもらうってか?
うぬぅ…
小説はやっぱ娯楽ですから、
それがいかんとは僕も思わんのですがね。 
ヒトの生きる様って、やっぱ詩に近いと僕は思うのです。
あれやこれや考えて、ルールや社会を築き、
その中でもがき苦しむ様がね。

で唯一、
唯一と言って良いと思う。僕が知る限りですが。
現代の現役の作家さんで、そんな世界を描ける人が居ます。
前回も、ずーっと前からも紹介、推薦しておりますが、
木内昇先生。
木山捷平を読み終えた僕が、
まったく物足りなさを感じずに読めました。
茗荷谷の猫 (文春文庫)
木内 昇
文藝春秋
2011-09-02


おもろい!これはおもろい!
いやーおもろい!

夢中で読みました。
これを紹介したいが為に今回この悩説で
キーボードをしたたか突いている次第にございます。
うまく行かない人々が、生き生きと描かれていて、
まるで呼吸まで聞こえるようです。

そうなの。
多くの売れてる現代作家さん達、
ストーリー先行の方々の小説は、
人が見えて来ないの。
ヒト型は見えるんだよ、でもまるで漫画のようなのだ。
うまく行ったところで映画やドラマ。
そう、役者さんを描いているだけに見える。
そうそうそう!
俺、今、すっげーうまいこと言った!
まさにそう!
監督が「よーい、アクション!」ってカチンコ叩いた後のような物語だ。
それに比べて、木山捷平、井伏鱒二、
現代の木内昇先生の作品はそこに人が生きているんだよ。
そうだ!
うわー!書きながら感じてたことを言葉に出来た俺!
ありがとう悩説(笑)


もおもろい!

笑い三年、泣き三月。
木内 昇
文藝春秋
2011-09-16


もおもろい!
笑い三年…の時代背景と言うのはひょっとしたら
木内先生が一番描きたい人達が生きた時代なんじゃないかな?
茗荷谷の猫にも同じような設定が出て来るんだよな。
茗荷谷の猫はね解説までおもろい。
「あーなるほどねー」と思える。
是非文庫版を。

と、そんな作風の作家さんで、僕がどうやら知らなそうなら、
是非教えて頂きたいのです。
そしてそんな話を何時間もできる友達に出会いたいのです。

夏目漱石ももっとちゃんと読みたいし、
島崎藤村も読みたいし、
司馬遼太郎読むのにどれだけ時間を要するのだろう、なんて考えるし、
生きている間に後、何冊本が読めるのだろう。
今度暇な休日は南海線の入場券でも買って、
各駅停車で揺られながら難波、極楽橋間を行ったり来たりしてみようかしら。
本を読みながら。 
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剣菱が切れるという異常事態が
現在発生している
こんな時
息子があれば買いに走らせるのに
しかし現代では
親の遣いとは言え
未成年者に酒類を販売せぬのか
くだらん!
子もないのに世間を勝手に罵倒し
早々と床に就く
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今更ながら、龍馬伝を観ている。
うん、こら人気出るわ。男前やわ。
だけどな、こんな完璧な男はいないよ、と言いたい。
ドラマや映画で描かれる二枚目は、実在はしない。
人間はもっとだらしないものだと認識しておかないと、
痛い目を見るのはあなたですよ、と
おせっかいな忠告をここに置いておく。
(余談。寅さんという人は、相当な二枚目だと気付いた
今日この頃。もちろんご尊顔のことではない)


日本史、特に幕末に詳しい母の影響で、
僕も若干、幕末に明るい。
司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』は、
一巻の半分にも満たないところで辞退した次第ではあるが、
『燃えよ剣』は、…やっぱり一巻の半分にも満たない。

なんとなく時代小説というのは、僕は入り辛かった。

それでもある程度のポイントは押さえていて、
登場人物も判るから展開について行けるのだが、
普段、歴史に興味を示さない人達はこの龍馬伝、
ついていけたのかしら?
ま、舞台が病院や銀行で、システム理解しきれなくても
数字は上がる訳だからな、それと一緒か。

龍馬が生きた時代と言うのは言わずもがな、
四民という制度が敷かれていて、武士が一番偉いとされる。
言わずもがな、この時代の武士、侍というのは役に立つものではない。
戦などなかったからである。
ただただ顔を大きくして、二本差しで町をのし歩くといった按配。
青かろうが老いぼれてようが、侍に町人は頭を下げる。

メリケンから黒船が送られるまで、徳川幕府の江戸時代は
平和そのもので、その間に日本文化が栄えたわけですな。
僕が普段聞いている古典落語もこの頃、
江戸時代を舞台にしてると思うと、個人的に変な輝きを
龍馬伝の中に見出すのであった。

浪人は身分は高くとも、お金がないわけです。
商人はその点お金があり、頭も切れるから、
“お侍様”をだましたり。
二本差しには誇りがあるから「この命にかけて…」
と復讐に燃えたり。
その辺が落語で実に見事に描かれておるのです。
旦那、若旦那、番頭、奉公人…
そんな関係もめちゃくちゃ面白い。

って書きながら頭の中で浮かんでるのは
↓これなんですけど(笑)



「お前は帳場で帳面つけなさい」(笑)

オモロイねんけどなー
わっかんねーかなー

因みに黒船が来た時、
幕府は大砲に見せかけた鐘なんかと一緒に、
お相撲さんを並べたんだそうな(笑)
今となっちゃ「何の意味があるねん」と笑いたくなるけど
それくらい、当時は日本人にとって、力の象徴だったんだね。

と、なんでそんなことここに書いたのかというと、
まさに今朝開いた小説、

茗荷谷の猫 (文春文庫)
木内 昇
文藝春秋
2011-09-02


が、思いっきりこの時代を舞台にしてて。
「イヤン」となったからです。

たった3ページで一瞬江戸時代に飛んだよ俺(笑)
木内先生、やっぱ現代の作家では一番好きです。
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 その夜、私は終電車に乗り後れ、ものは序で(ついで)みたいに、菅井の現住所である大久保の家に泊ることになった。
 あくる朝、顔も洗わず、二日酔いの調節に二人でビールを飲んでいると、夫人が上がって来て、…


木山捷平『竹の花筒』ヨリ



 昨夜は仕事帰りに久し振りの友人を誘い招いて、酒場で徳利を傾けた。
 その友人との会合は、何時も私が興味を注いでいる会話へと相いざなう。無理にそちら方面へと話を傾ける苦労をしないで、自然とそちらの方へと矛先が向く様が実に心地良い。ともすれば、興味のある方向へ友人の方から矛先を向けてくれることもしばしば。私が切り替えた話は、その友人にとって興味を抱く内容であることでもあるらしい。
 昨夜の話題は、多く日本芸能・文化についてだった。私の相撲好きは、ここの読者なら知り得ることであると思うが、落語にも歌舞伎にも興味を示している。などとここに記せば、私の興味のある話へと、無理やりに友人を誘い込んだかのように聴こえるかも知れないが、先述したように、ふとしたきっかけで、友人がそちらへ話を向けることも多々あった。地方出身者である友人は、学校の授業で歌舞伎について学んだり、修学で歌舞伎小屋へ訪れたこともあるという。相撲に関しても、先場所の白鵬、大砂嵐戦という大一番をテレビで観たといい、「塩を撒いて行ったり来たりが長い」と思っていたという。ここでは割愛するが、「それは仕切りと言って…」と私の長い講釈が始まるのは言うまでもないことだろう。

 文化が生まれるのも、伝統が守られるのも、酒場の片隅からであると私は思いたい。テレビやその他、メディアの中で蔓延るそれらは、あまりにも簡単に色褪せてしまう。
 文化は酒場の片隅から生まれるのだ。

 二度目に訪れたその店で、常連客と会話を交わし、写真を撮ったりしながら、私はまた文化の向上を計るのである。

 木山捷平氏の作品の話題に触れ、私の今のお気に入り『下駄の腰掛』の内容をざっと話した。「読んでみたい」と友人の顔が輝いたのが嬉しかった。ただ「明日も仕事」という友人の指定した終了時刻、23時半を大きく過ぎてしまったことは申し訳なく思う。
 帰宅し、風呂上りをクーラーで冷ましていたら、そのまま眠ってしまった。朝起きて二人前の冷やしうどんにビールを添えた。ビールだけでは飽き足りず、空いたコップに冷で剣菱を注ぐ始末。
 気分は夕方18時。
 日本の伝統を守っていくには、強靭な身体が必要なのである。
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