ありがたい。
涼しくなってきたことに私は何度、感謝の意を表したことだろうか。
ありがたい。夏が嫌いだ。暑いのが苦手だ。暑いくらいならキーンと冷たい方が良い。
その暑さに喰いつかれるかのように8月、私は体調を崩した。風邪をひいたわけではない。しっかり寝ても、疲れが抜けない朝を繰り返していた。目が霞む。頭がぼやける。ビデオ・オンデマンドで大河ドラマ『龍馬伝』をたった2週間弱で見切ったせいかも知れない。目薬により、視力が回復する感じを初めて体験した。しかしそれも、まさに言葉通り“一瞬”であった。更には愚図愚図とした天候。湿気は、ありもせぬ乙女心を圧し付けてくる女人の言動に似ている。現在、後者の方は落ち着いているが、湿気は私の体力を存分に奪った。
ある日が来れば、それらは解決すると私は高を括っていた。
“ある日”とは?祖母の住む山口県に足を向ける日を家族で決めていた、その日である。私は愛知県に住む兄に合わせて会社に一日だけ有給願いを出し、土日を利用して2泊3日の帰省をした。
必要最小限の荷を1800円で買ったばかりのバックに詰め、その一番底には忘るることなく祖母に貰った浴衣を入れた。同じ日、ほぼ同じ時間に新幹線に乗り込んだ愛知の兄は、一旦ヒロシマに寄って観光して来るという。その間、徳山駅で落ち合った母に浴衣の帯を買ってもらう約束をしていた。
ずっと愚図愚図だった空はその日だけほぼ快晴で、相変わらずの晴男、女家系を実感させられる。料金の高さを別とすれば、新幹線でたった2時間で着く徳山(現在は周南市。この記事では私にとって馴染みのある“徳山”という言葉を用いる)は近いと言える。江戸時代、土佐から江戸まで男の足で30日だったというから、大坂から長州は20日くらいだろうか?もっと易いか?瀬戸内を船で行ったのだろうか?昨晩から読み始めた司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読みながら私はそんなことを考えていた。ちょうど龍馬が剣術修行で江戸に渡る途中、初めて富士を眺望する、かの有名な場面を、私は喫煙ルームで再読した。
徳山駅に到着し、車で迎えに来てくれた母に会う。6月に来たばかりだったので、それほど感慨深いものがあるわけではない。お互い微妙な表情を浮かべざるを得なかった。
車に乗り込むか乗り込まぬかのうちに、私はすぐ話を幕末に振る。母は司馬遼太郎はほぼ読破し、他の時代小説にも相当明るい、私の知る人の中では随一の日本史マニアである。中でも幕末に明るい。
「やっぱり子は親の道を追うものだな」
助手席で私は言った。
「本来であれば親父の道を追うんやろうけど…」
親父の道は途切れた。私たち子には追うべき道がない。負うべき荷ばかりが増えている。
大河『龍馬伝』では高杉晋作役の男性が当たり役だと思っていて、私はスマートホンで画像を検索し、母に見せる。母もそのハマり役に大喜びだった。当然、私も母も芸名は知らない。
デパート(ショッピングモールと言うほど大型のものではない)に行き、約束通り帯を買ってもらう。気に入ったものがあれば、仕立て済の浴衣も新調する心積もりであったが、8月の終盤、浴衣は殆ど片付けられていた。帯も2本しかなく、そのうちの一本を購入。相当に気に入っている。
私は10時に徳山に着いたので、15時半にヒロシマから徳山に来るという兄を待つには、少し時間があり過ぎた。行く宛を失い、ビルの二階にある経営が成り立つのか心配になる喫茶店に入り、珈琲を飲みながら母に買っていった相撲マガジンを捲った。今回の力士紹介写真は“そめぬき”姿。相撲話を講じれば、時間はあっという間に経つ。
徳山は廃れている。週末にも関わらず、出歩く人も少ない。隣町の下松に都会は移って行っている。私はまだ幼少だった為、薄い記憶しかないが、昔の徳山はもっと賑わっていた。今や、人の数より閉ざされたガレージの数の方が多そうだ。その徳山に、兄が来た。
服装から色彩を失いつつある私と相反して、38になる2児のテテ親は彩りを増しつつある。会うのはちょうど一年前の京都以来か。FBで繋がってる今や、それほど懐かしさを覚えない。それは良いことなのか否か。両方と言える気がする。
元々性格は異なる兄弟である。離れて暮らす時間の方が圧倒的に長くもなり、価値観の違いもあからさまになって来ている。しかし不思議なもので、芯の部分の考え方や、趣味趣向、或いは酒、女の好みまで似ている。これが遺伝子というものなのだろうか。再会して第一声、私は兄に「(親父に)似て来てしまったな」と言った。
今回は子供達を連れて来ず、単身での帰省であったので、思う存分男同士の会話に勤しんだ。兄が話し出すと私は一歩退き、その道筋を譲る。いくつになっても弟とはそういうものである。いや、世間的には逆であろうか?しかし私達兄弟は5つ離れている。或いは私の性格であろうか?
一旦家に戻り、いつものように玄関先まで出迎えてくれた祖母と抱擁する。「よく来たね」と皺と共に刻む笑顔は、濁りを知らず。自然私達は「ただいま」と口にする。同じように母が「ただいま」と口にすると、「おかえり。お疲れさん」と少し冷めたような表情で祖母は言葉を向けた。母がすっかりそこの家人となったことが証明されたような気がした。
夜は海鮮居酒屋での会食となった。下松から1児のテテ親となった私よりひとつ下の従兄弟も駆けつけてくれた。二階靴脱ぎ場に置いてあった連獅子の日本人形は大層私を喜ばせた。
山口県にはいくつか有名な酒がある。その代表が獺祭(だっさい)であろうか?少しフルーティーな飲み口のその酒は、正直、酒飲みの私達兄弟には物足りない。メニューの中から私は“久保田”を選んだ。最近ずっと気になっていた新潟の酒である。値段が手頃なのと“辛口”とあったことからそれを注文した。
普段飲んでいる剣菱は辛口であるが、その辛味は旨みとコクの後、追うようにしてやってくる。私はそれに感激し、毎度の晩酌に用いるようになった。安い金額で満足のいく酒を見つけることが私の美学とも言える。
久保田は何段階にも分けて自己表現してきた。一口喉を通し、私は「ああ、おもしろい!」と口にした。剣菱が二段階だとすると、久保田(おそらく一番安い“百寿”だったと思う)は三段階と言ったところか。兄もそれに興味を引かれたようで一口やる。「ああ、わかる!」と言った。
それでは違うものを、ということで先刻より叔父が勧めてくれていた“原田”を兄は注文した。こちらは正真正銘、山口の酒である。不慣れであろう、大阪のノリに先刻より閉口していた女店員が持ってきた原田を、兄は「先に試せ」と言わんばかりに私に向けてきた。私はそれを大切に一口舐めた。
「…。」
言葉を失った私に兄は「あかんかった?」と自身の喉に通した。
「…。」
兄も言葉を失った。
結論から言おう。山口県はつもみぢの純米酒、原田は、私が33年間生きてきた中で、現在ダントツ一位の酒である。
先程の言い方を続けるならば、原田は七段階である。幾度も幾度も語りかけてくる。それも大声で怒鳴りつけてくるのではなく、耳元でそっと囁いてくる。艶のある吉原の女の声にあらず。よく出来た妻のしなやかな声である。
料理を含み、それを原田で追わすと、さらに深みを増す。年増である。それをいう今、私は完全に阿呆である。
自然、男はつらいよ第42作『ぼくの伯父さん』の寅さんの台詞を思い出した。奇跡的にYou Tubeでその場面が上がっていたのでこれに添付しておく。
兄を追い、私も原田を注文した。原田の語り掛けに耳を澄ますことに忙しく、私達兄弟は無口になった。いかんせん、兄の盃は、なかなか減らない。「はて?酔ったか?」と自分の杯に目を繰れば、やはり減っていない。コップ一杯の原田は、銚子2本分くらいの存在感を放っていたのだ。
帰宅後、祖母の誕生日を祝った。少女の心を持った88歳は綺麗に写らないから、と言う理由で、ひどく写真を嫌がるのだが、みなの祝杯を喜び、顔を紅く染めた。
みなが寝静まり、私は母と洋間で続きの酒を飲んだ。今後について深く話し合った。
私の朝も早いが、家族の中では一番遅い。私が床を出た朝6時前、もう、皆が起きて行動していた。
天気は予報通り、崩れそうな空模様だった。しかし、田舎に煙る空は妙に映えて見えた。兄とふたりで朝食前の散歩に出掛けた。まだ、今のように涼しくなる前だったが、その土地はきっと、真夏でも過ごしやすいのだ。冬は雪が積もる厳しい季節となるが。空が広く、静かである。河内長野に住んでいた頃は当然のように聴いていた虫の鳴き声も、随分久し振りに耳にした。イモリ一匹に興奮し、兄弟で写真を撮りまくった。大阪の部屋に出たら、逃げ惑うかも知れないが、田舎で出会うその存在は非常に貴重なもののような気がした。イモリの側も人間を完全に信用しているのか、近づいてシャッターを切ろうが、指先で突こうが、全く微動だにしない。ケツを振って這う様が滑稽で愉快だった。
朝食の後、叔母が温泉宿に連れて行ってくれた。車で40分ほどであっただろうか。今は宿としての経営はしていないようで、入浴客だけが来るようであった。元来、風呂好きではない私であるが、これは私の要望であった。普段、ユニットバスの狭い湯船で肘を打ち打ち身体を洗う毎日なので、大きな湯船に久し振りに浸かりたかったのだ。
私は浴衣に雪駄姿だった。風呂に行くのにこれ以上ないというほどの装束であった。まさか、帰りに道の駅に立ち寄ることになるとは思ってもいなかったのだ。
道の駅ではちょうど有志による一般人のコンサートが催されていたが、行き交う人々の視線から察するに、どうやら和装の私が一番目立っていたようだった。
道の駅には原田があったが、叔父がまた昨日酒蔵まで足を運び、兄弟ふたり分の獺祭を買ってきてくれているらしく、今回は買わずに帰った。
帰宅後、神棚の前で昼食をとった。昼間から飲んだ。いや、本当は朝から飲んでいた。交わす会話は相撲、音楽、思い出、さらには昨晩の原田。一夜明けて尚、原田は肴となり得た。
2時間ほどその席で眠り、夕刻そのまま夕飯となった。まさに食って眠り、たまに歌いの一日。家族の要望に応え、兄は様々のレパートリーを披露する。時々コードは出鱈目であった。その兄はこの日、歳をひとつ重ねた。
次の日も朝から散歩に出掛けた。昨日とは反対方向に足を向けた。最近では珍しくなった電話ボックスがあり、イモリよろしくふたりで写真を撮りまくった。
また朝から飲み、13時半の新幹線で兄弟それぞれ大阪と名古屋に向けて帰った。指定席を取ったが、自由席に座り、この旅で一番深く話し込んだ。それぞれ都会に住んでいるが、帰る田舎があることをこの上なく感謝している。そして家族みなが健康でいてくれること。これは一番の贅沢なのだと思う。
「檀れいのような女はもう売れとるぞ」
と、兄に諭された。うぬ…
「ひょっとしたらこれからちょくちょく行けるかも知れん」
何度か兄はそう呟いた。子供がふたりとも成長し、手が掛からぬようになってきたからだという。
考えれば、2年3年会えないのは普通だった。その頃の忙しさは今、ない。懐に余裕があれば、ふっと週末足を向けることも難しくはない。散り散りになった家族だが、心はみなひとつに固まっている。この歳になって初めて、その豊かさを実感しているのかも知れない。
新大阪で兄と別れた。
心に壮大な風景を抱き、行く前とは全く違う余裕の精神を取り戻した。あと何年夢を追うだろう?それは果たしてこの大阪にあるのだろうか?こういうことを言うと、まるで己を特別視しているようで今まで控えてきたが、一年大阪の市内に住み、私ははっきりと確信した。『大阪は私の肌に合わない』。将来は田舎に住みたい。奈良も善し。長野も善し。しかし一番はやはり山口か。私を私として迎えてくれる土地はいずこや。
まずは将来の手前を組み立てなければならない。逃げるように田舎に引っ込みたくない。
“志を果たして いつの日にか帰らん”(童謡『ふるさと』)
そうありたいのだ。
※兄のブログshigeのペンケースより抜粋
涼しくなってきたことに私は何度、感謝の意を表したことだろうか。
ありがたい。夏が嫌いだ。暑いのが苦手だ。暑いくらいならキーンと冷たい方が良い。
その暑さに喰いつかれるかのように8月、私は体調を崩した。風邪をひいたわけではない。しっかり寝ても、疲れが抜けない朝を繰り返していた。目が霞む。頭がぼやける。ビデオ・オンデマンドで大河ドラマ『龍馬伝』をたった2週間弱で見切ったせいかも知れない。目薬により、視力が回復する感じを初めて体験した。しかしそれも、まさに言葉通り“一瞬”であった。更には愚図愚図とした天候。湿気は、ありもせぬ乙女心を圧し付けてくる女人の言動に似ている。現在、後者の方は落ち着いているが、湿気は私の体力を存分に奪った。
ある日が来れば、それらは解決すると私は高を括っていた。
“ある日”とは?祖母の住む山口県に足を向ける日を家族で決めていた、その日である。私は愛知県に住む兄に合わせて会社に一日だけ有給願いを出し、土日を利用して2泊3日の帰省をした。
必要最小限の荷を1800円で買ったばかりのバックに詰め、その一番底には忘るることなく祖母に貰った浴衣を入れた。同じ日、ほぼ同じ時間に新幹線に乗り込んだ愛知の兄は、一旦ヒロシマに寄って観光して来るという。その間、徳山駅で落ち合った母に浴衣の帯を買ってもらう約束をしていた。
ずっと愚図愚図だった空はその日だけほぼ快晴で、相変わらずの晴男、女家系を実感させられる。料金の高さを別とすれば、新幹線でたった2時間で着く徳山(現在は周南市。この記事では私にとって馴染みのある“徳山”という言葉を用いる)は近いと言える。江戸時代、土佐から江戸まで男の足で30日だったというから、大坂から長州は20日くらいだろうか?もっと易いか?瀬戸内を船で行ったのだろうか?昨晩から読み始めた司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読みながら私はそんなことを考えていた。ちょうど龍馬が剣術修行で江戸に渡る途中、初めて富士を眺望する、かの有名な場面を、私は喫煙ルームで再読した。
徳山駅に到着し、車で迎えに来てくれた母に会う。6月に来たばかりだったので、それほど感慨深いものがあるわけではない。お互い微妙な表情を浮かべざるを得なかった。
車に乗り込むか乗り込まぬかのうちに、私はすぐ話を幕末に振る。母は司馬遼太郎はほぼ読破し、他の時代小説にも相当明るい、私の知る人の中では随一の日本史マニアである。中でも幕末に明るい。
「やっぱり子は親の道を追うものだな」
助手席で私は言った。
「本来であれば親父の道を追うんやろうけど…」
親父の道は途切れた。私たち子には追うべき道がない。負うべき荷ばかりが増えている。
大河『龍馬伝』では高杉晋作役の男性が当たり役だと思っていて、私はスマートホンで画像を検索し、母に見せる。母もそのハマり役に大喜びだった。当然、私も母も芸名は知らない。
デパート(ショッピングモールと言うほど大型のものではない)に行き、約束通り帯を買ってもらう。気に入ったものがあれば、仕立て済の浴衣も新調する心積もりであったが、8月の終盤、浴衣は殆ど片付けられていた。帯も2本しかなく、そのうちの一本を購入。相当に気に入っている。
私は10時に徳山に着いたので、15時半にヒロシマから徳山に来るという兄を待つには、少し時間があり過ぎた。行く宛を失い、ビルの二階にある経営が成り立つのか心配になる喫茶店に入り、珈琲を飲みながら母に買っていった相撲マガジンを捲った。今回の力士紹介写真は“そめぬき”姿。相撲話を講じれば、時間はあっという間に経つ。
徳山は廃れている。週末にも関わらず、出歩く人も少ない。隣町の下松に都会は移って行っている。私はまだ幼少だった為、薄い記憶しかないが、昔の徳山はもっと賑わっていた。今や、人の数より閉ざされたガレージの数の方が多そうだ。その徳山に、兄が来た。
服装から色彩を失いつつある私と相反して、38になる2児のテテ親は彩りを増しつつある。会うのはちょうど一年前の京都以来か。FBで繋がってる今や、それほど懐かしさを覚えない。それは良いことなのか否か。両方と言える気がする。
元々性格は異なる兄弟である。離れて暮らす時間の方が圧倒的に長くもなり、価値観の違いもあからさまになって来ている。しかし不思議なもので、芯の部分の考え方や、趣味趣向、或いは酒、女の好みまで似ている。これが遺伝子というものなのだろうか。再会して第一声、私は兄に「(親父に)似て来てしまったな」と言った。
今回は子供達を連れて来ず、単身での帰省であったので、思う存分男同士の会話に勤しんだ。兄が話し出すと私は一歩退き、その道筋を譲る。いくつになっても弟とはそういうものである。いや、世間的には逆であろうか?しかし私達兄弟は5つ離れている。或いは私の性格であろうか?
一旦家に戻り、いつものように玄関先まで出迎えてくれた祖母と抱擁する。「よく来たね」と皺と共に刻む笑顔は、濁りを知らず。自然私達は「ただいま」と口にする。同じように母が「ただいま」と口にすると、「おかえり。お疲れさん」と少し冷めたような表情で祖母は言葉を向けた。母がすっかりそこの家人となったことが証明されたような気がした。
夜は海鮮居酒屋での会食となった。下松から1児のテテ親となった私よりひとつ下の従兄弟も駆けつけてくれた。二階靴脱ぎ場に置いてあった連獅子の日本人形は大層私を喜ばせた。
山口県にはいくつか有名な酒がある。その代表が獺祭(だっさい)であろうか?少しフルーティーな飲み口のその酒は、正直、酒飲みの私達兄弟には物足りない。メニューの中から私は“久保田”を選んだ。最近ずっと気になっていた新潟の酒である。値段が手頃なのと“辛口”とあったことからそれを注文した。
普段飲んでいる剣菱は辛口であるが、その辛味は旨みとコクの後、追うようにしてやってくる。私はそれに感激し、毎度の晩酌に用いるようになった。安い金額で満足のいく酒を見つけることが私の美学とも言える。
久保田は何段階にも分けて自己表現してきた。一口喉を通し、私は「ああ、おもしろい!」と口にした。剣菱が二段階だとすると、久保田(おそらく一番安い“百寿”だったと思う)は三段階と言ったところか。兄もそれに興味を引かれたようで一口やる。「ああ、わかる!」と言った。
それでは違うものを、ということで先刻より叔父が勧めてくれていた“原田”を兄は注文した。こちらは正真正銘、山口の酒である。不慣れであろう、大阪のノリに先刻より閉口していた女店員が持ってきた原田を、兄は「先に試せ」と言わんばかりに私に向けてきた。私はそれを大切に一口舐めた。
「…。」
言葉を失った私に兄は「あかんかった?」と自身の喉に通した。
「…。」
兄も言葉を失った。
結論から言おう。山口県はつもみぢの純米酒、原田は、私が33年間生きてきた中で、現在ダントツ一位の酒である。
先程の言い方を続けるならば、原田は七段階である。幾度も幾度も語りかけてくる。それも大声で怒鳴りつけてくるのではなく、耳元でそっと囁いてくる。艶のある吉原の女の声にあらず。よく出来た妻のしなやかな声である。
料理を含み、それを原田で追わすと、さらに深みを増す。年増である。それをいう今、私は完全に阿呆である。
自然、男はつらいよ第42作『ぼくの伯父さん』の寅さんの台詞を思い出した。奇跡的にYou Tubeでその場面が上がっていたのでこれに添付しておく。
兄を追い、私も原田を注文した。原田の語り掛けに耳を澄ますことに忙しく、私達兄弟は無口になった。いかんせん、兄の盃は、なかなか減らない。「はて?酔ったか?」と自分の杯に目を繰れば、やはり減っていない。コップ一杯の原田は、銚子2本分くらいの存在感を放っていたのだ。
帰宅後、祖母の誕生日を祝った。少女の心を持った88歳は綺麗に写らないから、と言う理由で、ひどく写真を嫌がるのだが、みなの祝杯を喜び、顔を紅く染めた。
みなが寝静まり、私は母と洋間で続きの酒を飲んだ。今後について深く話し合った。
私の朝も早いが、家族の中では一番遅い。私が床を出た朝6時前、もう、皆が起きて行動していた。
天気は予報通り、崩れそうな空模様だった。しかし、田舎に煙る空は妙に映えて見えた。兄とふたりで朝食前の散歩に出掛けた。まだ、今のように涼しくなる前だったが、その土地はきっと、真夏でも過ごしやすいのだ。冬は雪が積もる厳しい季節となるが。空が広く、静かである。河内長野に住んでいた頃は当然のように聴いていた虫の鳴き声も、随分久し振りに耳にした。イモリ一匹に興奮し、兄弟で写真を撮りまくった。大阪の部屋に出たら、逃げ惑うかも知れないが、田舎で出会うその存在は非常に貴重なもののような気がした。イモリの側も人間を完全に信用しているのか、近づいてシャッターを切ろうが、指先で突こうが、全く微動だにしない。ケツを振って這う様が滑稽で愉快だった。
朝食の後、叔母が温泉宿に連れて行ってくれた。車で40分ほどであっただろうか。今は宿としての経営はしていないようで、入浴客だけが来るようであった。元来、風呂好きではない私であるが、これは私の要望であった。普段、ユニットバスの狭い湯船で肘を打ち打ち身体を洗う毎日なので、大きな湯船に久し振りに浸かりたかったのだ。
私は浴衣に雪駄姿だった。風呂に行くのにこれ以上ないというほどの装束であった。まさか、帰りに道の駅に立ち寄ることになるとは思ってもいなかったのだ。
道の駅ではちょうど有志による一般人のコンサートが催されていたが、行き交う人々の視線から察するに、どうやら和装の私が一番目立っていたようだった。
道の駅には原田があったが、叔父がまた昨日酒蔵まで足を運び、兄弟ふたり分の獺祭を買ってきてくれているらしく、今回は買わずに帰った。
帰宅後、神棚の前で昼食をとった。昼間から飲んだ。いや、本当は朝から飲んでいた。交わす会話は相撲、音楽、思い出、さらには昨晩の原田。一夜明けて尚、原田は肴となり得た。
2時間ほどその席で眠り、夕刻そのまま夕飯となった。まさに食って眠り、たまに歌いの一日。家族の要望に応え、兄は様々のレパートリーを披露する。時々コードは出鱈目であった。その兄はこの日、歳をひとつ重ねた。
次の日も朝から散歩に出掛けた。昨日とは反対方向に足を向けた。最近では珍しくなった電話ボックスがあり、イモリよろしくふたりで写真を撮りまくった。
また朝から飲み、13時半の新幹線で兄弟それぞれ大阪と名古屋に向けて帰った。指定席を取ったが、自由席に座り、この旅で一番深く話し込んだ。それぞれ都会に住んでいるが、帰る田舎があることをこの上なく感謝している。そして家族みなが健康でいてくれること。これは一番の贅沢なのだと思う。
「檀れいのような女はもう売れとるぞ」
と、兄に諭された。うぬ…
「ひょっとしたらこれからちょくちょく行けるかも知れん」
何度か兄はそう呟いた。子供がふたりとも成長し、手が掛からぬようになってきたからだという。
考えれば、2年3年会えないのは普通だった。その頃の忙しさは今、ない。懐に余裕があれば、ふっと週末足を向けることも難しくはない。散り散りになった家族だが、心はみなひとつに固まっている。この歳になって初めて、その豊かさを実感しているのかも知れない。
新大阪で兄と別れた。
心に壮大な風景を抱き、行く前とは全く違う余裕の精神を取り戻した。あと何年夢を追うだろう?それは果たしてこの大阪にあるのだろうか?こういうことを言うと、まるで己を特別視しているようで今まで控えてきたが、一年大阪の市内に住み、私ははっきりと確信した。『大阪は私の肌に合わない』。将来は田舎に住みたい。奈良も善し。長野も善し。しかし一番はやはり山口か。私を私として迎えてくれる土地はいずこや。
まずは将来の手前を組み立てなければならない。逃げるように田舎に引っ込みたくない。
“志を果たして いつの日にか帰らん”(童謡『ふるさと』)
そうありたいのだ。
※兄のブログshigeのペンケースより抜粋